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MORI FILM上映にあたり、展覧会企画者の佐藤哲至さんにインタビューしました

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「幽体離脱しちゃったみたい。vol.3」では、地方にフィーチャーした映画を制作している森博章さんにご参加いただいています。5月23日に上映会を開催するにあたり、本展企画者である佐藤哲至さん(てんせんめん代表)に森さんをお招きした理由を伺いました。

— 地方、それも福岡県の筑後に特化した映画ですよね。テレビドラマやCMでよく見る俳優も出ていないし(笑)、東京に住む人にとって、この映画を身近に感じることは難しいのではないでしょうか?

佐藤: おっ しゃる通り、森さんらが製作している映画は福岡県久留米市というまさに地方色の濃い映画で、一見すると東京で上映するのは場違いなような気もします。ですが、映画の中で描かれる、「地方と東京との関係」というのは、すべての地域に共通する課題を含んでいるのではないでしょうか。森さんの映画は、むしろ「東 京にいる地方出身者」すべてに向けた映画だと思います。そして、僕自身が、この映画を見て、考えさせられることがとても多かったのです。

— 私の家も典型的な地方出身者の家庭で、父は地方では職がないので東京で就職し、私はずっと東京圏で育ちました。まだ田舎に家があるので帰りたい気持ちもありますが、生活していけない...つまり職がないのではという不安もあります。

佐藤: 確かに、雇用は、圧倒的な現実問題としてあります。地元に大きな産業などがあれば、もちろん地元に居やすくなります。しかし、まず根本的な問題として、「東京にいた方がいい」という感覚はどのように作られるのでしょうか。この精神構造は根深く、無意識的で、暴力的ですらあるにもかかわらず、私自身それについて深く考える機会がなかったことに映画を見て気づいたのです。

僕自身の身近な体験としても、東京に住んでいるときに、なぜ東京にいるのかについては問われたことはほとんどありませんが、地元である茨城に移り住んでからは、なぜ東京に住まず、茨城にいるのかということについてはよく質問されます。そして、地元にいることに対して疑いを持つ人のほとんどは、不思議と地方から東京に来た人、あるいは地元の人が多い気がします。東京出身の人に、なぜ茨城出身で茨城に住んでいるかなんて問われることは一度もなかったと思います。地方という価値は、地方出身者自身の手によって、あるいは経済活動の中で過度に歪められている気がします。

私自身もいまだにそうですが、地方出身者こそ自己暗示のように、「東京にいた方がいい」と思い続け、地元を出た過去の自分自身を裏切るようで、地元に帰りにくいわけです。これは東京コンプレックスみたいなもので、雇用問題が大きいとは思いますが、何がそうさせているかについて深く考えることをせずに、自分自身で特定の経済圏に縛りつけてしまうのです。
この精神構造によって、東京という都市は、無意味に肥大化し続けているのではないでしょうか。

— 森さんはなぜ映画を表現媒体に選んだのでしょうか?

佐藤: 僕の知る限り、森さんは、大学院に入って上京し、地元と東京とのギャップに自身が最も敏感な時に、本格的にカメラを回し始めたように見えます。誰でもカメラが使えるようになった時代に、映画そのものというより、「映画づくり」を通して、地域の人を巻き込みながら、地域の魅力や、抱えている問題を地元と東京の「両方に」発信している点が、とてもユニークです。

最新作「かえりてゆきし故郷の途」では、東京の大学に進学した久留米市出身の大学生の心の葛藤がテーマとなっています。朴訥な彼は、上京することで逆に、今まで住み慣れてきた生まれ故郷の魅力に気づきます。しかし、故郷に帰っても、ほとんどそのことが理解されない。そればかりか、むしろ、スターバックスやマクドナルドといった、「小さな東京」を礼賛する地元の有り様にうんざりするわけです。 そこから見えてくるのは、地元と東京のどちらかがいいということよりも、どちらの立場の人も、こう言った構造を生み出している原因について、一度立ち止まって考える必要があるんじゃないか?という問いかけです。実際、主人公の心情は最後までもやもやとして、決心がついていません。

上京者の心の動きを非常にリアルに捉えているからこそ、上京者にとっては自分の地域に置き換えた時に、ぐさっと心に刺さると思うのです。少なくとも僕には刺さりました。あるいはそういったことに無意識だったことに気づく機会を与えられる。そして泥臭い演出の劇映画(フィクション)であるからこそ「どの地方にも置き 換え可能である」という意識が生まれ、普遍性が増し、東京にいる地方出身者にとっては自分自身の心の動きのドキュメンタリーを見ているように感じます。

— 「どの地方にも置き換え可能」。決して一地方を盛り上げるためのご当地映画ではないということですね。

佐藤: そうです。というか、地域を盛り上げるならもっとなんか、やりようがあるでしょう(笑)。むしろ、僕が注目したのは、この展示のテーマである、「見えないもの」をみせている点です。上京者が抱えている心の動きという、非常に些細で内的な問題と思われがちな見えない部分を映画にすることで見せているところに惹かれたんです。そして、些細だと思われるこの心の動きは、個人というよりも、社会的に再生産され続けてきた問題なんじゃないかということすら想像させてくれるわけです。

森さんが故郷である、久留米市をテーマに映画づくりを始めたことは自然なことだと思うのですが、話を聞いていくとさらにもう 少し普遍的なプロジェクトにこれから挑もうとしているのもわかりました。今までの方法論をもう少し確立して、別の地域や地方でも、同じように映画を作り出すコミュニティを生み出し、長崎で映画シーンをつくるということにチャレンジしているようです。

— 今回の展覧会のサブタイトルは「レトリックとしてのMIRAI」ですが、この映画を通してどのような「未来への展望」を感じておられますか?

佐藤: 展示企画や作品制作を通して、未来には2種類あることがわかってきました。それは「過去の延長線上に語られる未来」と、「過去を断ち切って語られるレトリッ クとしてのMIRAI」です。面白いのは、未来について語られるときはいつも、過去をどう扱うかが基準になることです。

政治は最も未来について語られる場所ですが、「地方創生」「オリンピック」「原発再稼動」「集団的自衛権」「TPP」「憲法改正」といった、直接的に未来という言葉とともに扱われる政策課題が数多くあります。それらを私たち自身がジャッジしないといけなくなるときが近づいていることは確かです。その時それらが「未来」なのか 「MIRAI」なのかについて、つまり過去をどのように扱おうとしているかについて、よく見極めないといけなくなると思います。未来を語ることと、過去を尋ねることは同じだからです。

未来の地方のあり方についても、いまこそ心の準備が必要で、森さん達の映画づくりはもちろん個人的な体験を具現化したものです。しかし、だからこそ、映画づくりという行為自体が、私たちが地域の未来を考えるための身近な道具(メディア)として、今後重要なツールになるのだと感じるのです。

— 本日はありがとうございました。

(聞き手:島津こころ)

森博章(もり・ひろあき)上映イベント
5月23日(土) 「MORI FILM上映会in木場 ~ 映画で考える地域のMIRAI」
参加費:1500円(1drink付)

▷第1部 MORI FILM上映会|時間:14:00〜17:45(14:00入場開始)

14:15-15:45 上映1(約90分)

16:00-17:45 上映2(約105分)

▷第2部 関連トークイベント開催(予定)|時間:18:00〜

18:00-20:00 イベント

20:00-21:30 交流会

参加ご希望の方は、こちらのフォームよりお申し込みください。