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勝俣涼氏による構想計画所『疑存島』展覧会レビュー

UP

想像的生産の強度

勝俣涼(美術批評)

 

「疑存島―他者なき世界の地図作成法―」と命名された構想計画所によるプロジェクトの展示空間は仄暗く染められ、そこに足を踏み入れるとまず、ところどころに配置された構造体やオブジェ、立像彫刻、絵画、そして壁沿いに並ぶ数台の机と椅子が目にとまる。中央には周囲から隔絶するように囲い込まれた、円筒形の小部屋があり、内部には脳画像や島の写真が掲示されている。この実験室のような小部屋の放つ息苦しさと非日常的な異世界感ゆえ、そしてなにより、上に挙げた構成部分のひとつひとつから小部屋の壁に至るまで、あらゆるものが白く塗られ、その漂白性が空間全体を制圧しているゆえに、私たちは現実の生活領域から突然隔離されてしまうだろう。この隔離作業こそ、構想計画所の企てを貫くものだ。

大陸から隔てられた「無人島」という形象が、彼ら(本展の要旨ゆえに、こうした人称代名詞を気安く使用することはためらわれるのだが)にとってライトモチーフであることは、このような展示レイアウトにも周到に反映されている。「疑存島」、すなわち想像力の産物とされる、海図上には記載されているが実在するか否か不明の島。この形象をめぐって、「他者なき世界」を想像する手続きが、展示作品およびそれに関連する書籍『疑礁―他者なき世界の地図作成法―』において展開されている。構想計画所によるコメントに依拠するなら、これは「他者との関係が巨大なインフラとして整備され、可視化される」硬直した現状への批判的応答として、「あえて他者から隔絶すること」、その寄る辺なき状態を思考する試みとして行なわれている。

このプロジェクトのベースとなる物語的プロットのなかでは、「他者なき世界」=無人島へとアクセスを試みた人物として、「Uni」と呼ばれる冒険家が登場する。書籍『疑礁』はこの夢想者を研究対象として執筆されたものであるとされ、その記述のなかでは、彼と様々なかたちで関係をもつ複数の人物あるいは名を媒介として、Uniの実像に迫っている。冒頭に羅列したような出品作品の各構成部分は、この書籍の記述内容と対応しており、たとえば小部屋の脳画像は、Uniの脳構造について研究した「Sae+Rit」という脳科学研究チームが登場する章と対応するものといえるだろう。

Ndと呼ばれる人物が執筆したとされる『疑礁』は、「「誰の」と名指すことのできない複数からなる単数の「何ものか」」(註1)と対峙する契機となることを目論まれた書籍だという。他者から隔絶されることで自他未分の状態となった、主体として統合されることなく、バラバラな諸感覚の寄せ集めとして非人称化された身体。言い換えるなら、この身体を単一の「私」の所有物として対象化し、自在にコントロールすることが不可能な状況に陥った「何ものか」。「複数からなる単数」という概念によって、このような形象が含意されているとすれば、『疑礁』という書籍それ自体はその現実的な対応物として差し出されている。というのも、『疑礁』において/をめぐって配置された(UniやNdを含む)複数の名が、すべて同一人物の別名だったことが同書の最後に示唆されるのだから。

私たちはここで議論の焦点を、出版物『疑礁』の刊行主体であり「疑存島」プロジェクトの遂行主体であるものへと、すなわち現実の活動体としての「構想計画所」とその構成員へと、移行させる必要があるだろう。前野智彦が所長を務めるこの活動体は、その活動内容によって構成員をそのつど変えながら運営されている。プロジェクトごとに組織体としての編成を組み替えうることが、構想計画所の可塑的性格を支えているのだ。ところで、展示空間の脳画像と『疑礁』の文脈上の記述とが対応関係にあったように、今回の「疑存島」プロジェクトに参与している成員(大塩紗永、小林耕二郎、酒井一有、前野智彦、三田健志)はそれぞれ、上述したUniやNd、Sae+Ritといったプロット上の登場人物と対応していると推察することができそうだ。そして、『疑礁』という書籍が「複数からなる単数」という構造をもっていたことを参照するなら、構想計画所という活動体それ自体が同様の編成によって成り立っている事実を見過ごしてはならないだろう。

だが両者の見取り図を重ね合わせるここでの手続きは、本論の結論ではない。というのも、『疑礁』という創作物と、構想計画所という現に在るものとの間には、レベル的な差異が存在しているからである。とすれば、『疑礁』を含む「疑存島」プロジェクトにおける創作物・制作物は、過去、あるいは未来の「他者なき世界」と、それが(少なくとも企画構成員にとっては)未だ経験されえていない現在との間のジレンマを想像的に「解決」するための、物語生産と受け取ることも可能であるように思われる。

しかしながら、このプロジェクトのいわば「饒舌さ」ゆえ、すなわちそのような「解決」の回路それ自体を晒すところまで突き進んでいるがゆえに、現に自らが「他者なき世界」の住人であるかのような当事者的な錯乱は、周到に避けられている。もし過剰に「説明的」であるという印象を(肯定的にであれ否定的にであれ)本展が与えるとすれば、この地点においてだろう。現在と未来との時間論的なレベル差が解消不可能なジレンマとして担保されていることは、たとえば『疑礁』の「奥付」(通常なら物語内容とは無関係な副次的データ)が、いわく言いがたい物質感を放つことからも明らかだ。登場人物が「Uni」のように徹底して非人称化されていた、想像力の産物である創作世界を異貌化するかのように、奥付には現実に存在する作者(たとえば「前野智彦」)の名が書き付けられている。参照文献の一覧や謝辞にも、本文上では「F国の哲学者D氏」のように非特定的であった名と突き合わせるように、「フランスの哲学者ジル・ドゥルーズ」という(集団的に共通了解されうる)名が、はっきりと露顕している。非人称的世界=無人島は、人称的な私たちの現在において「想像された」創作物という形式によって媒介されることでようやく、不完全なかたちでのみ思い描くことができる形象なのだ。

「他者なき世界」の表象不可能性に直面しながらも、そのような無人島的閉域を想像しようという困難な賭けを、作品生産の課題として引き受けること。制作とは、こうした困難や矛盾に満ちた、定位不可能な場であるだろう。バラバラな統合以前の諸断片からなる身体ひとつ(「複数からなる単数」である構想計画所は、その比喩的な形象である)こそが賭けられる、そのような制作=生産のモデルを実演することが、「疑存島」プロジェクトの全体像であるとすれば、それは想像的生産の手続きをめぐる批評的注釈として目論まれているのかもしれない。

 

(註1)前野智彦、三田健志監修『疑礁―他者なき世界の地図作成法―』、構想計画所、2014年、p.2

gallery COEXIST-TOKYO 『疑存島ー他者なき世界の地図作成法ー』構想計画所 インスタレーションビュー
撮影:神宮巨樹(スライドショー1:35)>>構想計画所_疑存島_